「収れん進化」や「オゾン層は生物に有害な電磁波が地上に届くのを防いでいる」は、宇宙人向けに地球文化を紹介する本に「バレーボール選手は背が高い人が多い」と書くような倒錯を感じる。
○○が故に、というような結果論的なら記述の仕方なら、まだ許容できる。
そのときも同様の環境で同じような体の仕組みを持たない場合や、異なった環境で似た体の仕組みを持っている場合の説明が必要だと思う。
収斂進化:バイオキーワード集|実験医学online:羊土社 (yodosha.co.jp)
冒頭のような言い方を許容することが、「温暖化で人類が滅んでも地球には影響がない」といった言説を生むのではないか。
これが極端になってくると「オゾン層が破壊されても、紫外線に強い、あるいは届きにくい場所に生息できるように生物は進化するので問題ない」といった論理が成立しかねないようにも思う。
おそらく、地球生物史としての進化の過程と、集団としての人間の行動原則と、個体主観としての好悪がごっちゃになると、上記のようなことになる。