割と本を読めた一年だった。
アクセス数は4000弱で、一番多く獲得した年だった。
他人にがっかりし続けた一年だったが、ごまかし抜きでまともな人を見つけることを希望に生きていこうと思う。
割と本を読めた一年だった。
アクセス数は4000弱で、一番多く獲得した年だった。
他人にがっかりし続けた一年だったが、ごまかし抜きでまともな人を見つけることを希望に生きていこうと思う。
学校では教えてくれない日本語の授業 / 齋藤 孝【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア
やりがいがある授業が大事。成長を感じられるように工夫する。新聞のような要約が出来るとか、エッセイがかけるとか。
まとまった量の文章の暗誦が効果的。日本語外国語問わず。
総ルビすればいいので、漢字レベルに文章レベルを合わせるのはナンセンス。
漢文の素読は、外国語習得の型作りにもなっていたし、日本語力も高めていた。
使う言葉によって思考様式が異なる。帰国子女が実際そう。
源氏物語はとてつもなくハイレベル。文豪も認めている。大和言葉と漢文が渾然一体となっている。
江戸時代の人は今とほぼ同じ喋り。
言文一致運動としての夏目漱石。
男性の、文化植民地根性丸出しの漢文崇敬が、文章を難しくした。
坊ちゃんは落語扱いされた。しかし、漢文の素養もある。英語の翻訳のようでもある。
「書くように話す」極端に形式ばっていないなら問題ない。
一分間にまとめて話す。キーワードを多く含ませて、出来ればオチもつける。
原始的でシンプルなモノ、面倒くさいくらいの物の方が脳の機能を高める。
文学作品は太宰治が最初として読みやすい。
ミステリも良い。ジェフリー・ディーヴァー。高野和明。
字幕は高度な日本語力で作成されている。「字幕の花園」「映画字幕の作り方教えます」
翻訳文を読みこなすのも訓練になる。複文や代名詞の読み取りなど。
音読は黙読に比べ、話す行為と自分で聞く行為が発生し、文字と音とのタイムラグが発生することで体の中に入って咀嚼しやすくなる。
言葉の勢いも感じられる。「歯牙にもかけない」「猛き者も遂には滅びぬ」
中西進「ひらがなでよめばわかる日本語」同音異義語には共通するイメージがある。
語群の共通イメージをくみ取れるのはネイティブだけ。
飽きるに満ち足りる意味があったりするのも
言語とは差異の体系(ソシュール)
「やばい」も「すごい」も似たような変遷
一文字でも意味がある場合も。イは神聖(イハフ、イク、イム)。チは呪力や霊力。
当て字も、意味を重ねて、言葉の奥行きを表現する手段。
「たまげた」も「魂消た」にルビを振った方が、核をとらえやすい。
日本語は音節が細かくなる。中国語とはそういった面でも異なっている。英語とはもっと。springは一音節なのに、スプリングは五音節。
子音だけの発音がない。
取り入れる時期で読みが変わる。老若男女と男女。コップとコーヒーカップ。
いのちやきずな等の大和言葉は漢字よりも人を動かす。
「たとへば君ー四十年の恋歌」相聞歌、万葉集においても雑歌、挽歌と並んで大きな構成要素。
雑種文化、日本が好きで、世界も好き
日本語が同族かの証
外来語ーカタカナ語も日本語。組み合わせもある。チーム力、シズル感
映画を筆頭に英語以外の言語が遮断
ウミ・ヤマ・カワなど日本語の単語は2音が基本で、助詞と合わせて「二・二・一」か「二・一・二」で、これにより七五調が身に染みる。井上ひさし
上がって下がるリズムが作れる
テンポとリズムも意味同様に大事。走れメロス
声の高さに合わせて、喋る速度を変える。
音読しやすい文章と、しにくい文章は人によって様々。合うのものをテンションがあがるアンソロジーや、心が落ち着くアンソロジーなどと分類する。
翻訳者によっても、リズムがことなる。
紋切型も紋切型の表現
誤用も辞書に乗れば正用。言葉は生命であり、民主主義的。
ただ、なんでも誤用を肯定するのではなく、言葉の生命力に根差しておらず、学力の低さに起因するものは指摘するべき。「情けは人の為ならず」を放置すると、矛盾した意味が両立し、言葉として意味をなさなくなる。
型に忠実な新聞。型をくずしてこその文学者。
マナーこそが文明
敬語は潤滑油
敬語によって主語を省略できるようになった。コトアゲ。「天皇が~○○」という文が不敬。
源氏物語の現代語訳などの、美しい文章を音読したり書き写すと、敬語が身につく。
敬語は場を落ち着かせる。
手書き文は唯一無二の思い出になる
キレのいい短い文を書く時は、手書きの方が良い
なまの反応が学習効果を高める
質問に答える形で、語りを入れていくと、臨場感が生まれる。
中期の目標を決めて、本を読んでいきたいと思えた。
身体的な動きを大事にし、脳内だけの交信(黙読、黙聴)を避けるべし、という内容が複数の章であって、日本語であっても音読していきたいと思えた。
言語と思考はお互いに強い影響を与えると考えているので、敬語や講義等での生の反応は大事にしたい。
先進国との差として
①人的集約の程度
②アイデアの不足
③資料だけで信頼する空気感
④工夫によって、生活が良くなっていくという共通認識
①南米は一万年程度の歴史だが、アフリカは7万年以上。類人猿を含めればもっと長く人がアフリカに生息し続けていた。それ故、菌やウイルスは人間を活かさず殺さずの状態でとどめる程度に強力なものが多数発達している。ひとたび都市を築こうとすれば、疾病が蔓延しやすい。そもそも土地も利用しにくいし、言語や文化多様な状態で固定化していたところに無理に国境を引かれたので、連帯が難しい。分業もスムーズに進行しない。
②ソ連は軽工業では遅れていたが、核兵器とミサイル分野ではアメリカとも競っていた。アイデアの模倣は非常に強力で、存在さえ知っていれば製造できることも多い。
技術や資材的には第二次世界大戦前でも、米ソなら、原子爆弾の開発に着手出来たかもしれない。だからといって1920年、30年代の人々が間抜けということにはならない。
例えば、滑車やら手押し車やら、重いものを運ぶ創意工夫がなされないのは、そもそも類似のアイデアが無いから。また、周りにある物品の種類そのものが少ないので、生産物や収穫物にはそれぞれ特有の性質があって、育て方や扱い方にも特有のノウハウがある、という発想も発生し得ない。
③日本人も1930年でも、金融を信じれない人がいた。
現在でもスマホでの支払いや、ネットオークションを利用したがらない日本人は多い。
だが、日曜大工をするとして、店で売っている釘や木の板の品質が表示より劣っているかもしれない等と考える人はいない。
工業などで、直接原料をやり取りするとして、粗悪品を送り付けられる心配をする人も、先進国にはいない。
ところが、そもそもアフリカでは、何か創意工夫によって全体の負担を軽減できるといっても、各々の負担に応じた報酬が受け取れるか、完成品が盗まれないかなどの保証がないだろう。
④仮に一人の人間が何か画期的なものを思いついても、他の人の協力が無ければ成立しない。
例えば、両親は祖父母より良い暮らしをしているという話や、テレビ(同郷の人間が豊かになっている様)の恒常的な視聴などがなければ、そこで暮らす人は先祖代々の暮らしをこれからもしてゆくという世界観になる。
そのような人たちの助けを借りるのは難しいだろう。
2017年11月にドラゴンクエストライバルズで初めてカードゲームに触れてから、ほとんどの期間において娯楽の中心がDCGだったが、自分が他のDCGユーザー、少なくとも多くの時間をDCGに費やしているユーザーとは、違う目線で遊んでいたのではないかと最近になって気づきだした。
初めの頃はジャンルの新鮮さに夢中だったが、ゲームの理解が進んでいくうちにデッキの構築を中心に遊ぶようになっていった。
ライバルズがサービス終了して、不完全燃焼だったDCGへの気持ちをぶつける形でHSに時間を費やすようになって、その勢いで競技シーンに出ようとし始めた。
結果2022年のMT4に出れて、賞金も獲得できた。そしてこれからもランクマ環境が楽しいならまたMTに出ようとしようと考えていた。
だが2023年度になって、HSがつまらないと感じながらもプレイし続けていると、他のプレイヤーのHSへの反応・感想に違和感を覚えるようになっていった。
harapeco20200309.hatenablog.com
デッキに、そしてカードプールに対しての見方が他のプレイヤーとは違っているのではないかと思い始めた。それにともなう形で、ランクマで高い順位を取るということの意味合いも異なる形で捉えているのではと感じるようになった。
私はこんなデッキもあるよ、というようなニュアンスで、半ば日記のつもりでデッキのツイートをしてきていたし、他の人も似たようなものだと思っていた。
それは一人用RPGをする感覚でDCGを遊んでいたからだった。ドラゴンクエスト8で例えると2週目のプレイだからと、主人公はブーメランスキルを、ゼシカは短剣スキルを伸ばして、かつレベル38未満でゲームクリアするようなものだった。
やり込みと言うには簡単で、味変というにはやや骨のある遊び方で、まだ見ぬ境地を味わうためであった。
ところが最近になってようやく、他の人は何か「プレイヤーとしての強さ」のようなものを意識してDCGを遊んでいるのだと気付いた。
私は基本的にデッキを中心にDCGを見つめてきたし、まだ見つかっていない強いデッキが存在するはずだ、というモチベーションで遊んでいた。勝利や勝率はデッキが本物かどうかの確認でしかなかった。プレイングに関しては、人によって分かれるし、多彩なグラデーションを描く場合があるのも理解しているが、そのデッキ強弱確認作業において必要なだけという認識も大きかった。そもそも、ある程度勝てると分かっているデッキを使い続けることに意味を感じ取れなかった。
そのようなレンズで他のプレイヤーを眺めて来たので、「こいつらは何を言ってるんだ?」という機会がどんどん増えていった。私を褒めてくれるような態度だったとしてもそういうことだらけだった。
また、同じ理由でデッキにオリジナリティを見出す感覚も全く理解出来なかった。カードプールはみんな一様なので、DCGが独創性のようなものを表現できる空間だとはとても思えなかった。
私がまだ見ぬデッキを探していた過程は「私がオリジナルデッキを生み出す過程」ではなく、「その環境においての強いデッキが出揃っていく過程」であり、ゲームのポテンシャルが引き出されていく感覚が楽しかったのだ。
オリジナルデッキという響きはこれまたドラゴンクエスト8で例えると、格闘スキル振りでラスボスを倒して、それをオリジナリティのある遊び方だと言うようなもので、およそ共感できるものではなかった。
泰然とそこにある「ソレ」を拾い上げる行為を、周りに人がいないからというだけで独創性と呼ぶ様に、滑稽さすら感じていた。
ただ上記のようなことは、DCGを「順位をつけるためのツール」と見ていると思えば、共感は出来なくとも理解は出来るような気がしている。
単純な強弱だけを考えるなら、目新しさのようなものは必要ない。さらに言うと順位さえつけばいいので、(デッキの)強弱に関して突き詰める必要がないのだ。
またそのような視点に立てば、デッキというものは常識的な範囲で慣習に沿って組み立てをすればいいことになる。それと同時に、常識外のものが発生することになる。与えられたカードプールという大枠の内側に、常識という線で区画を設定しておけば、そこからはみ出てみるだけでオリジナリティになる。
私は「強いプレイヤーと思われること」どころか「自分が強いこと」にすら関心が無かった。競技シーンで強いプレイヤーと戦ってみたいとは思ってきたが、それもやはりデッキの強さ確認と突き詰める機会を貰えるという動機が大部分を占めていた。
また、ある環境でもし他の人が自分と同じ発想・好みで作ったデッキを使っていれば、その環境においての私のHSのプレイ時間はずっと少なくなっていたように思う。
みんながみんな強弱や独創性の場としてDCGを見ていたとは思わない。実際ライバルズはドラクエのファンゲームとして見ている人も多かった。しかし、時間を費やしている側のプレイヤーやそういうプレイヤーを通じてDCGに浸る人は、私とは違う様式でDCGに臨んでいたのだと今は感じている。
根本的なずれを言葉にしてみて、変なデッキという表現を変に思う気持ちや、他のプレイヤーに感じていた怒りや失望のようなものは薄らいだが、彼らと相容れることは無いのだろうなという考えはより強くなった。