内容
壮大で抽象的な命題に挑むのではなく、日常的な行動から世界を変えるすべを身に着けるべきということ。決まった「自分」というものは無いということ。ばらばらな世界を人間性によって修復するという思想。
以下、注目ポイント
はじめに
自分を型にはめない。
まっとうに計画を建てるのが幸福な人生を作るという思想は16世紀のカルヴァン派に根差している。
1.伝統から”解放された”時代
現在の思想とは特定の時と場所をもとにつくられたたくさんの物語の一つに過ぎない。
この無頓着の時代に自己や、世界の中での自己の役割についての観念というただの新自由主義への代替案を示してくれる。
西洋と中国、伝統的な思想と近代的な思想を対立するものではない。
トロッコ問題など考えても意味がない。意思決定を単一のデータと択一の決定に単純化しているからだ。しかも、日々の平凡な暮らしに影響を与えない。またそのような場面では、どうせ感情と本能が支配権を握るからだ。
ありのままの自分というものはない。わたしたちは、特定の時特定の場所であらわれる限られた感情だけをもって自分の特徴だと思い込み、死ぬまで変わらないと思い込む。しかし、人は単一で均質な存在ではない。
思想家たちはみな行路を切り開く過程そのものが自分の世界を変える可能性を秘めていると説いた点で共通している。
2.世界じゅうで哲学が生まれた時代
2500年ほど前に世界中で哲学が誕生した。技術革新や思想とは、昔から地球上を移動していたのだ。
青銅器時代の世襲制の貴族社会が崩壊したのち、ギリシャの民主制や中国の中央集権的な官僚制と法律制度が試みられるようになった。これは社会的流動性を促した。その結果貴族社会に組み込まれていた宗教組織も崩壊した。こうして、ユーラシア各地で宗教運動や哲学運動が盛んになった。思想家たちは社会秩序が衰退するときに浮上する問題に取り組み始めたのだ。
日常が重視されたのは、貴族社会の崩壊にあたってそのすぐ下の階級から出た知識人たち、その筆頭の孔子によるものだ。孔子は人類が繁栄した偉大な時代を周の初期とし、自己を修養し、得を高め、自分を取り巻く世界をよりよくすることにつかのま成功した数人が統治した時代ととらえた。こうした世界を孔子も弟子たちと築こうとした。
世界がいかにしてこうなったか、世界を変えるために何ができるかという問いかけから、りっぱな良い人間になる本質について、刺激的な発見がうまれることになった。
3.毎日少しづつ自分を変えるー孔子と<礼><仁>
哲学者は壮大な問題に取り掛かりたがるが、孔子はきみは人生を日々どう生きているかと問う。
「性自命出」・・・感情は生まれつき備わっている。それが外に出るのは物に引き出されるからだ。
<礼>を通して新たな自分を発見する。負のエネルギーに対抗するために、古代中国の人々は儀礼行為を発展させた。特に重要だったのは祖先祭祀であった。孔子はこの祖先祭祀は重要だが、霊が臨在するかは問題ではなくただ霊がそこにいるかのようにするのが重要だと答えた。この儀礼において家族がなんの不和もないかのようにふるまうことで、その生者達の関係性は新しい領域に踏み込む。この儀礼が繰り返され、健全な関係を結びなおすことで、それが表面化してくる。この「離脱」こそ人間関係を修復するカギとなる。
「愛してる」なども一種の儀礼である。
機械的に作法に従うのは意味がなく自動人形となる危険もある。
「本当の自分」を探してはいけない。さまざまな感情や性向や願望や特徴がごちゃまぜになった存在で、いつも違う方向に引っ張られていると捉える。そして、自分の行動パターンを打破する。この打破は他の人の行動パターンも変え得る。
<仁>とは抽象的に定義できるものではない。しいて言うなら他者に対してふさわしい反応が出来る感性といえる。 わたしたちの坑道は、仁を実践するか、仁を損なうかのどちらかだ。仁を見分けられるようになれば、仁を育むことが出来る。
孔子は理性的にのみ行動するのではなく、全体的な状況をみて行動すべきと説くだろう。唯一の規範は仁だ。
世界を変えるには大きなことをしなければならないと考えがちだが、小さい事積み重ねていくのが大事だ。
礼を実践してのみ仁が修養できる。しかし、仁を実践する生活をしてはじめて、いつ礼を取り入れて、いつ作り変えるかを体得できるとも説く。この堂々巡りこそが孔子の思想の奥深さの一つだ。
人生は日常に始まり日常にとどまる。その日常の中でのみ真にすばらしい世界を築ける。
4.心を耕して決断力を高めるー孟子と<命>
勤勉が報われるとは限らない。墨子は信賞必罰を是とし、そのような世界を「慈愛」と呼んだ。しかし孟子はそのような世界をパブロフの犬のような条件づけられた利己的な行動しかしない人ばかりになると反論した。
計算的なやり方では知的思考と感情面とが分離すると危惧した。しかし、孟子は感情をなおざりにしなかった。
墨子は世界に条理があるとし、孟子は世界は転変するという思想であったのだ。前者は自分の言動が方向づけられる世界で、後者はけっしてあてに出来ない、ささいな言動を通じて自己や人間関係をつちかうことで、絶えず新たに築き上げる世界だ。
合理性でも勘でも無い、第三の意思決定モデル。常に感情の感度を研ぎ澄まし、感情と理性が強調して働くようにすれば、将来を閉ざす決断ではなく前途を切り開く決断ができる。
理性を使って感情を修養する。心の修養とは自分の感情の引き金や感情を左右する行動パターンを意識し、自分の反応を磨くことである。これは無念無想のような内なる解放ではなく、外に向かい世界に参加するということである。
はっきりした指針や安定した世界があるという観念を捨てる。そして、心によって感応する。身にかかる悲劇も好機も日常レベルの努力の積み重ねでしか正しく反応できないのだ。
5.強くなるために弱くなるー老子と<道>
強風には大木よりも若くしなやかな方が折れずにすむ。
<道>とは探すものではなくつくるもの。<道>とはことばでは言い表せない、分化していない原始の状態であり、あらゆるものに先立つものだ。
極端に異なる領域に暮らしているため、人生が分割されているように感じるが、それが自分に出来ることや自分がなれるものを限定してしまっている。神秘的な悟りと日々の生活には関係性がある。願望や目標は、ときに他人と競ってると自覚させ、道徳上の強い信念は他人の意見を受け入れがたくさせ、他人との断絶を生む。区別は危険をはらんでいる。
「老子」はリーダーシップの指南書としてだけでも、神秘主義の書としてだけ書かれている訳でもない。書かれた文言と自分自身と世界をばらばらに分離したものと捉えるのをやめたとき、わたしたちはもっとも能力を発揮する。
あからさまな問題に直接働きかけるかわりに、ばらばらのものや感情や人々を繋ぎなおすことに的を絞れば、その時点で、長期にわたって、どうすれば環境や関係性を変えられるかがわかってくる。ばらばらな人たちを新しい形で積極的につなぎなおすのだ。
無行為(無為)を実践する人こそいかなる状況でももっとも影響力がある。あまりに自然で誰も疑問をもたないような世界を作り上げるのだ。
6.まわりをひきつける人になるー「内業」と<精><気><神>
行動とは独力でやってくとか、欲しいものを手に入れることだと考え、行為力とは、ものをつくったり、コントロールしたり、所有したりすることと考えがちだが、それは違う。
「内業」は内なる神性を育むことを求めた。行為と行為力という概念を支配からではなく、つながりから生じるものと解釈しなおすと私たちはもっと神のようになり、元気になる。
気はあらゆるものの中に存在しながら純度の違いはは無限にある。無生物の部分は尖った粗い気で出来ている。これは濁った気と呼べる。純度が高くなるにつれて気は<精>になる。精は生きているもののなかにしか存在しない点で別格である。さらに気がもっとも霊妙で純度が高い状態の時<神>の気になる。
精神を消耗する生活は神をも消耗する。そして悪い気が体を満ちていく。
神性は自分の意志を押し付けることではなく、世界と感応することで能動的になる。小さな変化を通じて周囲のあらゆるものと感応することで世界に影響をおよぼす。
7.「自分中心」から脱却するー荘子と<物化>
荘子は人間を神格化しようとするかわりに、人間界を完全に超越することを呼びかけた。
荘子にとって道とは、たえまなく流転し変化するあらゆるものと完全に一体化することだった。
人間だけが道に従わない。わたしたちの天賦の才である理性のためだ。
自発性とは欲望を解き放つことではなく、訓練した自発性というものを想像する必要がある。
熟達した料理人やピアニストは経験と修練とセンスだけですぐれたものを生み出せる。この訓練こそが世界のなかでの自分のあり方そのものを鍛えるということだ。
修練とは目の前の技術に特化したものではなく、視野の狭さを打ち破るための修練と認識する必要がある。想像力と創造力とはたえまない<おのずから>のフロー状態から湧き出てくるからだ。
単独の偉大な「個」からではなく、より大きな宇宙に、万物への無限の好奇心に、そして創造性の川(荘子の言う<道>)に、心開くことが創造力の源泉である。
経験を増幅してくれる人がそばにいるだけで世界のとらえ方が大きくひろがる。自分の見方だけが唯一の見方ではなく、たえず他人の視点意識するのだ。
動植物が他の生物の一部になるような<物化>の流れの分断こそ避けなければならない。
8.「あるがまま」がよいとはかぎらないー荀子と<ことわり>
農業などの形で人間は世界にパターンを与える存在だ。
自然を「あるがまま」受け入れるのは極端で危険である。わたしたちが自らに問うべきはいかに自分にふさわしい場所を探すかではなく、自分が世界をうまく構築できたかどうかである。
荀子は、孔子より250年後に生きた者で、自分より前にあらわれた思想家たちの業績を統合した。
荀子は人の本性はねじまがった木のようなもので、外から力づくでまっすぐにしなければならないと捉えた。そのためには<偽>すなはち「人為」が必要となる。
人為的なものにうさんくささを感じるのはよくない。ただ自分が人為的なことをしていると自覚してそれをうまくやる必要があるのだ。
<礼>とは意図的に考案された試みだった。本来悪の本性のある聖人は時間をかけて礼を作り出す方法を学んだ。
問題が起きれば改良すればいい。問題とすべきは際限のない技術革新ではなく、それぞれ個別の状況で、それを使ってなにをするか、それをどう足掛かりにするかが重要だ。
荀子は神格化ではなく人間性こそ、よりよい世界を作り出せる力をわたしたちに授けると論じた。カルトのリーダーは破滅的な未来を描くのだ。
9.世界じゅうの思想が息を吹き返す時代
東洋哲学は西洋では曲解されている。
わたしたちは霊魂ー過去ーに多かれ少なかれとりつかれている。よって祖先祭祀に相当するものを行う必要がある。よりよい世界の構築に取り組むと同時に他者に対する感情を修養しなければならない。
感想
人生が変わるとは、この本が主語ではなく東洋哲学が主語である。壮大な問題に取り掛かることなく日常にとどまる哲学を示す故「人生が変わる」のである。
パターンに従って自分というものを限定しているというくだりに感銘を受けた。あるがままの自分というものはないのだと思えた。
後半はスピリチュアルなものに見えてななめよみすると、要は気の持ちようなどと解釈することも出来るが、どれもばらばらな世界と自分と世界を区別することに警鐘をならしている。一体化というものの大切さを学べた気がする。