ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書) | 重田 園江 |本 | 通販 | Amazon
内容
「監獄の誕生」からフーコーの思想に迫る。
以下、注目ポイント
Ⅰ フーコーの世界へ
第1章 価値を変えろ!
フーコーがつねに心がけたのは、世の中で当たり前だと思われることを、当たり前と思えさせなくすることだった。蒙を啓くことよりも見えているものをちがったしかたで見せることを望んだ。
身体刑にも固有の合理性。
第2章 フーコーはなぜ「監獄」を選んだのか
すっきりした一本の物語になっていないが、それが魅力でもある。
全然関係ないと思っていたものが急に繋がって見えたときの驚き、あるいは日常を違ったしかたで見るヒントに出会ったときの喜びを大切にしていた。
規律の例を挙げてその特徴を説明したいのなら、要覧的な作りの本のなっていたはずだがそうなっていない。規律が監獄に限らない一般性を持って広がっており、その広がりにこそ注目すべきだということが見えていた。
要覧的な本は書き手にとってもこの上なく退屈に違いない。
Ⅱ 身体刑とその批判
第3章 「監獄の誕生」はそれほど突飛な書物ではない
デュルケムは社会が進化し複雑になるにつれて、刑罰の苛烈さが徐々に弱まるという説を支持した。しかし、フーコーは苛烈さとは何なのかと問う。
経済、文化、政治といった既存のカテゴリー、既知の分類そのものを疑問を付すことが必要なのだ。
第4章 身体刑は変則的でも野蛮でもない
極限的な例から入るのは、身体刑を理解するのにいちばん残忍な例から入るのが適当だからだ。
祖型の儀式に観衆は不可欠だった。
第5章 啓蒙主義者は旧体制の何を批判したのか
より良く裁くとはより人道的ということではなく、より上手く裁くことを意味する。
Ⅲ 規律権力
啓蒙主義か規律か
監獄への閉じ込めと、啓蒙主義の思想が同一視されている。近代の刑罰は自由のみを剥奪する刑であり、自由こそが近代におけるもっとも重要な価値という理由づけがされる。
二重性。裁判などの手続きは発達したが、刑罰自体はまったく別の系譜をもつ人間管理のテクニックが幅を利かせている。
第7章 空っぽの頭と自動機械
規律が浸透する場所では人間は固有命を固有の歴史連なる比類なき存在ではなく、部品でしかない。
近代以前の無名の人々と違い、規律化される主体、服従する身体はできるだけよく見られ、分析されなければならない。
規律の失敗とは、規律の欠如ではなくスターリン体制下のようなところを指すという。
第8章 規律はどこから来たのかーフーコーの系譜学
フーコーは軍隊と近代工場に共通する点として、集団をつくることで個々の要素の総和以上の力を引き出さなければならない点を挙げた。
もともと規律型の権力は軍隊、修道院、宗教的教育組織といった閉鎖的で特殊な場所で用いられ、ひっそりと目立たないまま受け継がれてきた。
黒幕は「国家」なのか。合法的暴力を独占している国家が権力有しているのではなく、それぞれの手前勝手な欲求や意志を持つエージェントたちの総合行為を通じて、関係に型が与えられる。その型が権力としてフーコーの分析対象なのだ。
黒幕が誰かより、問を逆向きにして、どのような権力行使のスタイルに焦点をあてれば近代国家が理解できるか、と問う。
Ⅳ 近代国家と統治
第9章 規律、ポリス、近代国家ー「知」から近代を見る
汚辱にまみれた人々こそ主役に当てる。
第10章 国家理性について
戦後日本は国家を何よりも暴力の主体としてとらえる動機付けが失われた。
フーコーにとって国家理性とは、国家とは、国家の本質とは何かと問うことで、その内実を探ってゆく実践的で実用的な学問全体を生み出した一つの概念、一つの物の見方である。
主権を法とセットで理解する。
第11章 非常事態の政治家、日常の政治かー主権と生権力を考える
Ⅴ 監獄ふたたび
第12章 監獄の失敗は何の役に立っているか
フーリエは既存の価値観が政治的に作られたものに過ぎないと見抜いていた。
矯正教育は役に立たず、刑務所は犯罪の温床になっていた。
国家転覆を狙うような人種を閉じ込めて置ける。
犯罪者は役に立つ、政治化しない限り。
規律化されざる人々を反規律にむかわせない施設。
第13章 冷血でもなく熱血でもなくー監獄情報グループ
終章 フーコーのリアルと、彼をつかまえにゆく方法
感想
内容があちこち飛んでいるような印象を受けた。フーコーはそれだけ難しいということか。
文体も安定していなかった。日を開けて書いたのだろうか。