真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960 (講談社現代新書) | 池上 彰, 佐藤 優 |本 | 通販 | Amazon
内容
終戦~戦後のいわゆる左翼の動向。
以下、注目ポイント
序章「左翼史」を学ぶ意義
格差の是正、貧困の解消といった問題は左翼が掲げてきた論点そのもの。
思想や政治運動というものは、その時代時代に特有の社会構造に対して反作用として出てくるもの。社会の機能不全に対して、左翼的な考えが台頭してくる可能性も。
リベラル(自由主義者)と左翼は対立的な概念。左翼は上から下まで厳しく統制。
左翼とは理性に立脚して人工的に社会を改造して、理想的な社会に限りなく近づくということ。
「平和」を重視する考えということではない。伝統的な左翼は人民に武装させ、国家の横暴に対抗しようという考えを持つ。
右翼は人間の理性に限界を感じている。
社会党は暴力に訴えず平和的手段で革命を起こそうという考え。長く非さんな戦争に疲れ切っていた戦後左翼の多数派の心情にぴたりと合致した。
理性でコントロールできるので、原発や核に肯定的な左翼セクトもある。
社会党は非核を貫く。
日本の左翼運動史は共産党だけでなく、社会党も見なければならない。
共産党は「コミンテルン 日本支部 日本共産党」。私有財産制度を否定し君主制の廃止を掲げていた。民主主義革命を資本主義の枠内で目指す。
社会党は戦前の合法的社会主義政党の関係者が大同団結してできた。右派は反共産主義的な考えを持っていた。左右の幅が広すぎた。
共産党は追及力がある。それを下支えしている機関紙「しんぶん赤旗」。
共産党は政権を奪取した暁には現在の体制を違うものに作り替えることを目指しているという意味で特殊。
共産党は二段階革命論を唱えている。
共産党は「左翼社民」を嫌う。マルクス主義と関わりの薄い「右翼社民」には近づく。
第一章 戦後左派の巨人たち
アメリカによる初期の占領政策の特徴は、日本の「非軍事化」と「民主化」を徹底して行ったこと。
共産党の自分たちは民主主義革命の先兵という甘い認識。
講座派の史観、まだ当時の日本は封建社会の段階にとどまっているというもの。
講座派は「日本資本主義発達史講座」で共産党、労農派は政治雑誌「労農」からで社会党の理論的支柱。
日本資本主義発達史講座は天皇制を打倒する人民革命を起こして財閥・巨大企業が支配する国をつくり、さらに社会主義革命を起こすという二段階革命論。
労農派は明治維新は不完全ながら欧州のブルジョア革命に相当するものであるという考え。
ソ連が「人民民主主義」を掲げた巧妙な意図。資本主義者であろうと社会主義者であろうと連帯してPeople's Democracyを打ち立てるのだというメッセージで西側に影響しようとした。また、国境の外側に緩衝地帯をつくるためでもあった(旧東ドイツなど)。
労農派は米軍占領下で平和革命など不可能と早々に見抜いていた。
第二章 左派の躍進を支持した占領統治下の日本(1946~1950)
「逆コース」の時代。東アジア情勢によって占領政策は逆を行った。
寄り合い所帯としての社会党。左右の幅が非常に広い政党であった。高水準の知識人も多くいた。
事務局を掌握するのが共産党の常とう手段。
憲法草案は共産党だけ「天皇制廃止」「一院制」「再軍備」を唱えており、独自性を発揮していた。
戦後は世界で社会主義国が次々誕生し、敗戦下の日本人は飢え、それゆえメーデーには大勢の労働者が集まってくる。プロレタリアの怒りは沸点を超えつつある、革命は近い、そう思わせる空気があった。野坂の再軍備論にしても来たるべき革命戦争において米英などの資本主義陣営との戦争をする事態を念頭に置いていればこその主張。
「共産党的弁証法」という欺瞞的リアリズム。どんなものにも良いものと悪いものがあるという主張。ソ連や中国が持つ核兵器は「良い核」。
マルクス主義が人格的価値を重視していないという渡辺恒雄の指摘。
共産党は軍隊のようであった。
共産党の失墜を決定づけた「二・一スト中止」。共産党はGHQを解放軍と規定してしまったためその指示を聞くしかなかった。
GHQも労働運動の主導的立場から転落。
共産党の分裂、「国際派」と「所感派」。
共産党は二重構造を持つ。
ソ連=コミンフォルムの意向に振り回され、主体性を取り戻せないまま暴発した。
第三章 社会党の拡大・分裂と「スターリン批判」の衝撃(1951~1959)
社会党は平和路線を突き進んだ。向坂逸郎や山川均は東アジアで戦争が近づいており、日本もそれに巻き込まれる可能性が高いという強い危機感があった。
平和四原則。
朝鮮に関する外交問題で党が分裂した。
アチソン演説はアメリカのエラー。
血のメーデー事件と朝鮮ビューローの謎。
暴力主義的破壊活動を行う団体の活動を調査する機関として公安調査庁が新たに創設されるほど、占領軍は日本の警察を信用していなかった。公安調査庁はアメリカと関係が非常に深い。
共産党が暴力路線に走ったことで一般の国民から遊離し、社会党支持者が増えた。
五十五年体制。所感派と国際派が国際派主導のもと再統一。社会党も10月に再統一。左派が主導権。財政界が社会主義革命を避けるため、自由党と民主党に一緒になるように働きかけ自由民主党ができた。
日本労働組合総評議会(総評)が左傾化し、労使協調路線、つまり経営側にぬるい要求しかしなかったのが、ある時期から厳しい要求を突きつけるようになった。
左傾化をいあやがり飛び出した右派の人たちが嫌になって飛び出し、新たなナショナルセンターとして全日本労働総同盟(同盟)を結成した。
「スターリン批判」の衝撃。五十六年二月のフルシチョフによるスターリン批判、そしてその影響を受けて十月にハンガリー動乱。
この批判をもとに日本の左翼に大混乱が起きた。それが数年後の新左翼登場を準備した。
黒田寛一はスターリン派によるスターリン批判であるがゆえの限界があると指摘した。黒谷にとどまらず日本中の知性を活性化させた。
宮本顕治はスターリン批判ごの新しい潮流に適応しきれなかった。しかし構造改革派とよばれるグループが共産党から誕生した。天才上田兄弟。
第四章 「新左翼」誕生への道程(1960~)
安保条約が改正されると恒久的にアメリカ軍の日本駐留を認めることになり、これによって日本が台湾や朝鮮半島での戦争に巻き込まれるリスクが生じる、という主張に基づいて反対運動を起こしたのは社会党だった。
新左翼を育てた「社会党の傘」。三池闘争と安保闘争の相乗効果は大きかった。社会党の傘の下の新左翼セクトが集まることがなければ安保も盛り上がらなかった。
目的が手段を浄化する革命的暴力論。革命には暴力は不可避であり(ヘーゲル)暴力は弁証法的に肯定される。
社会党の二重構造。議員はよくいえば温和なお父さんタイプ。秘書が社会主義協会から来た超エリートで、言動と行動が一致しづらくなっていた。社会党はそのうち自民党との麻雀政治に陥る。
感想
共産党に厳しい論調だった。左翼は内ゲバが取りざたされるような、分裂と再統一を繰り返す集団であり、理解にはトップの個人の特徴と動向を抑える必要があるようだが、周辺の事情もあやふやだったので、その個々人についての記述はあまり頭に入ってこなかった。少し読むのが早かったかもしれない。