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倉都康行 金融史がわかれば世界がわかる[新版]: 「金融力」とは何か 書評 

金融史がわかれば世界がわかる[新版]: 「金融力」とは何か (ちくま新書 1260) | 倉都 康行 |本 | 通販 | Amazon

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内容

ポンドからドルへの金融覇権の移行。金本位性と為替変動制の選択。資本市場の変化。金融の未来。

 

以下、注目ポイント。

第1章 英国金融の興亡

 大航海時代金銀複本位制だったが、17世紀後半から崩れ始める。金の需要が高まり、市場の金銀比率は通貨の法廷比率と解離するほどであった。金銀比率は改められたりしたが上手くいかず、1816年の本格的な金本位制と向かっていった。

英国経済の勃興はモノづくり革命ではなく、その前に起きたモノ売買の商業革命、つまりインドやアメリカなどの植民地を巻き込んだ世界的な貿易の急拡大や商品の多様化によるものだった。

英国は十七世紀末には国債発行制度が導入され、それを引き受ける中央銀行が設立された。これは英国の財政革命とよばれる。

さらにノーフォーク農法と呼ばれる農耕技術の向上で工業化への労働力供給が支えられた。

金本位制には二つの役割がある。一つは為替市場における決済の際の仕組みで、金平価に金輸送のコストを加味した狭い変動しか起こらない、実質的な固定相場をもたらすことであった。もう一つは経営収支の均衡に関するものである。赤字国では金が流出することになるが、そうれば通貨供給量も絞らざる負えず、デフレが起こる。こうして輸出品の価格が下落し価格競争力が回復する。

上記の金本位制の役割は机上論で、実際はポンド中心の体制であった。

中銀から受け取った銀行券が紙幣として市場に出回った。

基軸通貨には通貨価値が安定してる事、貿易規模など経済力が大きいこと、また金融市場が発達していることが求められる。十九世紀では英国だけが該当した。

綿製品などの繊維製品が貿易の大きな部分を占めており、それらの取引がポンド建てで行われたためポンド中心になっていった。

第一次世界大戦後も世界の貿易を牛耳ったのはポンド決済の世界的なネットワークにあった。しかし、米国もFRBの成立を契機に民間銀行が中南米を中心に海外進出するようになった。

英国の量より質を重視する気質が金融覇権の米国への移り変わりの理由の一つであった。

第2章 米国の金融覇権ーポンドからドルへ

大金鉱が発見されたりしたが金の価値が減少することは無かった。

英国の対外投資の巨大さが経済的没落を早めたという見方もある。

南北戦争は、連邦政府の公債発行による借入れの増加を、そして鉄道建設はその敷設資金調達のための社債や株式の発行を促し、これらを引き受けて販売する金融ビジネスが登場した。これと工業化によって米国は1869年の大陸横断鉄道などを契機に経済大国への道を進み始めた。

独立当時の米国はメキシコで鋳造された銀貨が流通していた。

新大陸からの銀流入で銀の価値が欧州で暴落した。

十七世紀から十八世紀にかけて英国の重症主義の下で、植民地たるアメリカも英国の通商政策に組み込まれ、そのなかで金銀複本位制が導入された。

現在の「ドル」が正式に通貨として採用されたのは独立後の1792年の貨幣鋳造法が制定されてからで、それまで「ペソ」であった。

一世紀以上もの間銀は主役であった。

金本位制の以降は銀の価値低下によるインフレを防ぐためのもので、世界各国が導入した。

英国のマーチャントバンクが国際貿易や戦費増大などになやむ政府と表裏一体だったのに対し、米国の金融資本は、国内の鉄道や石油、軍事産業など国家のインフラ事業とともに巨大化していったのが特徴的である。

南北戦争の際、金の際限のない流出を抑えるために何にも兌換できない政府紙幣を発行した。この紙幣は金を離れて財務省を信用するしかない現在のような紙幣制度の走りでもある。これは1879年に廃止された。

米国における中央銀行の設立は、金本位制のもとで通貨機能の効率性を求めてのことだった。

第一次世界大戦を通じて、米国は債務国から債権国となり、戦後英国、フランス、ベルギーなどは米国に対して債務帳消しの依頼を行ったがこれを拒否するほどの政治力を発揮した。

世界恐慌から数年後、欧州は金の兌換停止や銀行倒産などの経済的影響が出始めた。 

米国は金の兌換停止まではいかないまでも、金の固有私有の禁止などを打ち出した。またローズベルト大統領は金ドル比率を変え、金の切り上げとドルの切り下げを行った。これにより金の流入と自国通貨切り下げによる経済回復を図った。

1930年以降もポンドはドルとともに基軸通貨として居続けた。輸出の多さや、英連邦(インド・豪州)がポンドで準備していたのが理由の一部だ。貿易や工業力の統計推移だけが基軸通貨を決めるわけではないということである。

第3章 為替変動システムの選択ー金とはなんだったのか

第二次世界大戦後、世界の金準備のほとんど米国にあり、米国のみが金の兌換を認めていた。ドルは唯一金と並ぶ準備通貨だったのだ。

ブレトンウッズ体制のIMF協定へ。ここでは実質的な固定相場であった。

 1971年のニクソン・ショック。これを契機に金は廃貨となり為替変動制となった。

資本取引は、経営収支よりも金利差によって誘発されることが多い。実際、円高ドル安になるはずが、金利が比較的高いドルに資金が流入してドル高となっている。

金本位制が持つデフレ的要素。金の保有量分しか紙幣を発行できない。赤字で金が流出すれば、ますますデフレする。通貨政策のために国内政策が犠牲になることがある。

米国の金本位制はジレンマを抱えていた。米国が経営赤字でなければドルが流出せず、貿易流動性が損なわれる。しかし、赤字が続けばドルの信用性が損なわれるということだ。この矛盾が金の兌換停止につながった。 

米国の赤字は1992年まで増加傾向だったが、それを支える資金は日本から中国にシフトしていった。

第4章 変化する資本市場

スワップ(金利の交換)は金融のコメと言われる。外見が違っていても、計算上等しい価値のものは交換可能。

売りにくい資産を、将来的に生み出す価値をもとに有価証券を発行して資金調達するのを証券化という。国債社債しかなったところに、資産担保証券という世界が広がり、投資の厚みが増した。

十九世紀から二十世紀でも資本取引はあった。海外で巨額の資本を導入するなどである。日本は日露戦争の際、関税収入を担保にポンド建ての資本を調達した。

サブプライムローンの失敗の原因は不動産価格が恒常的に上昇するという思い込みであった。

量的緩和政策。民間銀行が日銀に保有する残高を拡大して、それを融資に回させようというものであった。しかし、実際は国債購入が主となってしまった。

リーマンショックを契機にFRBが政策に大きく介入し、米国債市場の主役となってしまった。これにより投資家はFRBの動向に右往左往することとなった。

日本は公的機関が株価に強い影響を与えており、日本の金融力は高くなりにくい土壌にある。

欧州はマイナス金利策にまで踏みこむ政策で貯蓄性向の強いドイツで不満が高まった。

中国は日本同様輸出奨励策として巨額の為替介入を行っていた国である。しかし、それは固定相場の元行われており、その水準を維持するための人民元売り、ドル買いであった。

日本は地域金融機関の再編が多くあったが、質的な変化ではなく、地元とのつながりは薄いままであった。

第5章 課題に直面する現代の金融力

アジアで円建てが盛んでないように、経済力の突出と金融の関係は線形ではない。

ユーロ建ての債券やデリバティブ取引が盛んになったのは欧州内の投資家が中長期資本取引に積極的に参加しやすくなったから。

ユーロは政策の統一はされておらず、国債金利もばらばらであるから不完全通貨といえる。

中国もリーマンショックに対して資金の放出を行ったが、ゴーストタウン建設など非効率で過剰な生産を生み、巨額の焦げ付きが発生してしまった。

投資銀行は凋落したが、商業銀行も厳しい制約をとられるようになった。

ヘッジファンドはとは市場の歪みの是正を読んで資産の購入と空売りを行うということである。しかし、この運用哲学を外れて投機的な行為に出る場合もある。ロシア国債を購入して破綻状態に陥ったLTCMを米国は救済した。これはヘッジファンドに貿易流動性を確保する銀行的な側面を見出していたからである。

日本の金融力の魅力は安定性にある。

しかし債券市場は国債で占められ、社債証券化商品など多様性に欠けている。また社債におけるさまざまな格付けに対応する裾野も狭い。

円は内弁慶な通貨でもあるのも弱点。

フィンテック。もし従来型の通貨と仮想通貨の二通りの金融政策が導入できるなら自由度が増す。

感想

入門書ながら読み応えがあった。

記述の重複がいくつかあり、内容が交差としているともいえるが構成が雑なのではとも感じた。