反動的な態度の例
1.冷戦体制
大きな政府と小さな政府
計画と自由
→20世紀初頭からソ連崩壊までに書かれた本には、はしがきに資本主義と共産主義の対立を念頭に置いた一文が置かれていることがままある。無意識に相手側が特に強調している価値観を否定しようとする向きがあったのではないかと疑ってしまっている。
暗黙知の次元という本には理性の結晶として科学を頼りにする社会主義国家で、目的を強くは置かない科学(純粋科学)を否定する概念が生まれたことに驚いていた。社会主義者の盲目さに対しての偏見が強化されたのではないかと思える。
2.宗教
反動的な態度を見ることによって、ライバル心が生まれ、自分たちの性質を深くまで探っていった例。しかし、「相手方と違う」ことを念頭に置いた結果、歪んでいった要素もあるのではないかと勘繰ってしまう。
3.私の経験
ハースストーンを筆頭に色んな分野で、私は、暗黙知的な領域の理解があまり出来ていないのではないかと考えていて、どうしたものかと思案している。
暗黙知と形式知をきっぱり分けようとするのは、暗黙知との境目にちかい形式知と堂々たる形式知を分割する作業にしかならない気がする。あるいは、理解が及んでいない部分があるはずだからと、他人のふるまいから隠れた法則を見出そうとするのも、私の器量と技量では、その暗黙知部分を形式的な形にまとめようとすることにしかならないように感じる。
上記の二つの取り組みは、「私自身が形式知部分に固執している」という事実に対しての反動的な態度なわけだが、それを否定してさらなる良い理解の方法を模索するのもまた、ただ反動的な態度に反動的であるにすぎない。
箸の持ち方を一冊の書物にまとめるとすさまじい分量になる。しかし、見様見真似で試行すれば、分厚いマニュアルを参照していくよりもずっと早く簡単に箸の持ち方を習得
できる。
反動的な態度に対しての反動を繰り返しても、マニュアルが増えていくだけで真の理解には至らないように思えるのだ。
せまい穴の先に空間が広がっているとして、その空間を満たそうとする場合の良い手段とは、無数の分岐を持った針金を差し込んで傘をひらく要領でばっと広げるのではなく、何か柔らかいものをじっくり流し込むことではないだろうか。