気取らないことが キドり
奢侈に傾く虚空とみられることより
誰にも顧みられない方が 〇〇〇
2017年11月にドラゴンクエストライバルズで初めてカードゲームに触れてから、ほとんどの期間において娯楽の中心がDCGだったが、自分が他のDCGユーザー、少なくとも多くの時間をDCGに費やしているユーザーとは、違う目線で遊んでいたのではないかと最近になって気づきだした。
初めの頃はジャンルの新鮮さに夢中だったが、ゲームの理解が進んでいくうちにデッキの構築を中心に遊ぶようになっていった。
ライバルズがサービス終了して、不完全燃焼だったDCGへの気持ちをぶつける形でHSに時間を費やすようになって、その勢いで競技シーンに出ようとし始めた。
結果2022年のMT4に出れて、賞金も獲得できた。そしてこれからもランクマ環境が楽しいならまたMTに出ようとしようと考えていた。
だが2023年度になって、HSがつまらないと感じながらもプレイし続けていると、他のプレイヤーのHSへの反応・感想に違和感を覚えるようになっていった。
harapeco20200309.hatenablog.com
デッキに、そしてカードプールに対しての見方が他のプレイヤーとは違っているのではないかと思い始めた。それにともなう形で、ランクマで高い順位を取るということの意味合いも異なる形で捉えているのではと感じるようになった。
私はこんなデッキもあるよ、というようなニュアンスで、半ば日記のつもりでデッキのツイートをしてきていたし、他の人も似たようなものだと思っていた。
それは一人用RPGをする感覚でDCGを遊んでいたからだった。ドラゴンクエスト8で例えると2週目のプレイだからと、主人公はブーメランスキルを、ゼシカは短剣スキルを伸ばして、かつレベル38未満でゲームクリアするようなものだった。
やり込みと言うには簡単で、味変というにはやや骨のある遊び方で、まだ見ぬ境地を味わうためであった。
ところが最近になってようやく、他の人は何か「プレイヤーとしての強さ」のようなものを意識してDCGを遊んでいるのだと気付いた。
私は基本的にデッキを中心にDCGを見つめてきたし、まだ見つかっていない強いデッキが存在するはずだ、というモチベーションで遊んでいた。勝利や勝率はデッキが本物かどうかの確認でしかなかった。プレイングに関しては、人によって分かれるし、多彩なグラデーションを描く場合があるのも理解しているが、そのデッキ強弱確認作業において必要なだけという認識も大きかった。そもそも、ある程度勝てると分かっているデッキを使い続けることに意味を感じ取れなかった。
そのようなレンズで他のプレイヤーを眺めて来たので、「こいつらは何を言ってるんだ?」という機会がどんどん増えていった。私を褒めてくれるような態度だったとしてもそういうことだらけだった。
また、同じ理由でデッキにオリジナリティを見出す感覚も全く理解出来なかった。カードプールはみんな一様なので、DCGが独創性のようなものを表現できる空間だとはとても思えなかった。
私がまだ見ぬデッキを探していた過程は「私がオリジナルデッキを生み出す過程」ではなく、「その環境においての強いデッキが出揃っていく過程」であり、ゲームのポテンシャルが引き出されていく感覚が楽しかったのだ。
オリジナルデッキという響きはこれまたドラゴンクエスト8で例えると、格闘スキル振りでラスボスを倒して、それをオリジナリティのある遊び方だと言うようなもので、およそ共感できるものではなかった。
泰然とそこにある「ソレ」を拾い上げる行為を、周りに人がいないからというだけで独創性と呼ぶ様に、滑稽さすら感じていた。
ただ上記のようなことは、DCGを「順位をつけるためのツール」と見ていると思えば、共感は出来なくとも理解は出来るような気がしている。
単純な強弱だけを考えるなら、目新しさのようなものは必要ない。さらに言うと順位さえつけばいいので、(デッキの)強弱に関して突き詰める必要がないのだ。
またそのような視点に立てば、デッキというものは常識的な範囲で慣習に沿って組み立てをすればいいことになる。それと同時に、常識外のものが発生することになる。与えられたカードプールという大枠の内側に、常識という線で区画を設定しておけば、そこからはみ出てみるだけでオリジナリティになる。
私は「強いプレイヤーと思われること」どころか「自分が強いこと」にすら関心が無かった。競技シーンで強いプレイヤーと戦ってみたいとは思ってきたが、それもやはりデッキの強さ確認と突き詰める機会を貰えるという動機が大部分を占めていた。
また、ある環境でもし他の人が自分と同じ発想・好みで作ったデッキを使っていれば、その環境においての私のHSのプレイ時間はずっと少なくなっていたように思う。
みんながみんな強弱や独創性の場としてDCGを見ていたとは思わない。実際ライバルズはドラクエのファンゲームとして見ている人も多かった。しかし、時間を費やしている側のプレイヤーやそういうプレイヤーを通じてDCGに浸る人は、私とは違う様式でDCGに臨んでいたのだと今は感じている。
根本的なずれを言葉にしてみて、変なデッキという表現を変に思う気持ちや、他のプレイヤーに感じていた怒りや失望のようなものは薄らいだが、彼らと相容れることは無いのだろうなという考えはより強くなった。
「収れん進化」や「オゾン層は生物に有害な電磁波が地上に届くのを防いでいる」は、宇宙人向けに地球文化を紹介する本に「バレーボール選手は背が高い人が多い」と書くような倒錯を感じる。
○○が故に、というような結果論的なら記述の仕方なら、まだ許容できる。
そのときも同様の環境で同じような体の仕組みを持たない場合や、異なった環境で似た体の仕組みを持っている場合の説明が必要だと思う。
収斂進化:バイオキーワード集|実験医学online:羊土社 (yodosha.co.jp)
冒頭のような言い方を許容することが、「温暖化で人類が滅んでも地球には影響がない」といった言説を生むのではないか。
これが極端になってくると「オゾン層が破壊されても、紫外線に強い、あるいは届きにくい場所に生息できるように生物は進化するので問題ない」といった論理が成立しかねないようにも思う。
おそらく、地球生物史としての進化の過程と、集団としての人間の行動原則と、個体主観としての好悪がごっちゃになると、上記のようなことになる。
儀式的な行為は、狩猟採集時代から存在する。ブルシットジョブという本に、男性がしていた狩りはカロリーや栄養価的には大したことない営為とあった。一方女性がしていた採集や内仕事こそが、生活に直結する行為であった。
歴史的にも、男性は無駄で見栄っ張りな仕事をしてきていて、女性は実際的な仕事をしてきたという印象になるかもしれないが、別の見方もある。儀式事自体への見解で、評価がひっくり返るのだ。
土着信仰レベルでも、現代の三大宗教でも祭事の中心は男性が担ってきた。祭事はその社会が正常に運行される為に必須の行為だった。それが男性に独占されてきたのだ。
今の価値観からすると、このような祭事は冷ややかな目で見られる。*1しかし、重要行事として扱われてきた期間の方が長いのだ。現代の目線によって価値が逆転している。
現代の政治も冷ややかにみられることが多い。大衆の実際的な経済活動こそが「現実」であるということだ。ここに狩り⇔採集、祭事⇔農耕、政治⇔経済の相似が見出せる。
政治家に女性が少ないことへの批判的な態度は、政治の実際性に対しての評価の高さ(ただの儀式ではないという認識)から来ている部分も多いが、儀式的な行為の男性の独占に対しての怒りも大きいと考える。儀式を冷ややかに見る人と、独占に怒れる人とでズレが生じている。
女性の席を増やすこと自体が目的と化している部分に対しての冷笑もあるだろう。その男女平等の活動も儀式かもしれない。
*1:現代人の虚無感とナントカ部族の充実感の対比を祭事に見出す向きもあるが、少数派